そこ、hyphen

これはコトバですか?

七月半

しばらくはてなから離れていたので、今のはてなのトレンドとか状況とかよくわかってないんだけど、ぶっちゃけ、そんな置いてけぼりな感じがちょーどえーんでないの、とか思っている。

最初のはてなブログを始めた頃にちょうどブログを始められた方が3年たったという記事をあげられてて、そこで「なんだかんだ予測不可能な未来にいる」ということを書かれていたのだけど、全くもってそうだな、という感じだ。

過去のわたしにとっての未来であるところの現在は、はっきり言って過去から見れば完全に予測不能な場所にいるし、でも叶えたいことはきちんと叶って、あとはどうやって生きていこうかなあとか思ってしまうこともあり、とりあえずいろんな人に約束をとりつけてご飯食べたり遊んだりすることで延命している。

延命方法としては、本を読む、ということも含まれるから、つい今しがた見かけて気になった本を即ネット予約してみた。図書館が近いって素晴らしい。

気がついたら7月も半ばで、夏限定で読んでいた『百年の孤独』が、とうとう昨年読了を迎えたので、今年からは『紙の民』を読み始めるつもりでいたのを、今日突然天啓のように思い出したので、明日から読む。下手すると今年の夏で読み終わってしまうかもしれない。

これは余談だけど、季語に「月尽」というのがあって、

タロツトで恋占ふや七月尽   /  横田政道*1

 みたいな使いかたをするのだけど、こないだふと「月半」という季語もあっていいんじゃないかと思ったりした。

七月半サドルまたがり尻を焼く

 みたいなね。ちょっと川柳ぽいな。

トゥドゥ

ここ最近やることが多すぎてトゥドゥアプリを導入したら思いの外便利で、何かとやることを作ってはすぐに記録している。もちろんこのトゥドゥとはToDoのことで間違いありません。

「外部記憶に頼った方が長生きできる」という仮説は、人類学者レヴィ=ストロースの人生から導かれたものなのだが、果たしてこれが一般的なのかまではよくわからず、しかし我が人生においては「メモをする」という行為と相性が良いらしく、メモってるとそれだけで満たされる。なんでもないようなことが幸せなのだ by 第13章

しばらくネットがなかったせいで、紙の日記に文章を書いていたのだけれど、ブログに書いてたら何書くんよ、みたいな気持ちになっていて、とりあえず私に必要なのは使いたくなるような良いペンなのかもしれない。ぶっちゃけタイピングしていく方が文章を書く上では思考スピードの妨げにならないのだ。そうなってくるとやっぱ万年筆欲しいんよなぁ。誕生日はセルフギフトを逃したので、次はクリスマスかなあ。わからんけどもね。

最近は鈴木以外数人さんのツイートを読むのが好きで、娘さんが方言で喋ってるのがいい。時々リツイートで流れてくる黒瀬珂瀾さんとこの六歳児さんも方言でいいなと思う。土地というものにあまり縁のない生活を送ってきたのに、いや送ってきたからこそ、土地に根付く言葉に強く惹かれている。

ただいま、新居

ネット環境がようやく今日整ったところ、あ、ブログ。と思い立ってやってきた。

Wi-Fi環境が整うまでに尋常でない量のパケットデータ(?)が消費されてしまい、しかしそんな心細い日々からもおさばらだ。

最近何をしているかというと、主に片付けと掃除で、あっちが揃えば今度はこっち、というように、ひたすらどこかを片付けている。しかも夏なので汗だくになる。クーラーをつけたりいったん消して窓を開けてみたりして、調整するのだけれど、今以上に暑くなったり寒くなったりすることもないのだった。

今、床に自分の全蔵書を積んでいるのだが、妹に写真を見せたら「廃品回収やん」と言われた。本棚は月末に手伝ってもらいながら作る予定で、それまではひたすた収集車を待つ公園の片隅の光景が続く。

去年から激増してしまった体重が、ここ何週間かでストンと3分の1くらい落ち、正直ちょっと楽しい。調子に乗って洋服を買ってしまったくらいだ。でも一ヶ月間で落としても良い体重というのが決まっているらしく、私は一気に落としすぎたので、緩やかにやっていくつもり。そうして、重力も失って最後は光の粒になって消えていく。アディオス。

またツイッターにダラダラ書いてしまったので、今朝になって消す羽目になった。ツイッターは140字だと思うと文章も思考も途切れ途切れになってしまいがちで、ついコアなことばかり書こうとしてしまう。うろうろしながら結論にたどり着くことができない。そしてインスタントにリアクションが得られる。いやだなあ、キャラウェイ。

「いやだなあ、キャラウェイ」というのは高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』に出てくるセリフ(といっても地の文だけど)で、私にとっては時々おまじないのようにして思い返す言葉なのだけど、自分をなだめるための言葉というよりかは、気持ちを代弁するような言葉なので、本当はもっと別の言葉が欲しい。『おおかみこども』の「おみやげみっつたこみっつ」とかそういうの。知人がそんな言葉をもっているようだと知ったときは、ひどく羨ましかった。

この間、キャサリン・ダンの『異形の愛』を読んだ。

読んだというにはとてもお粗末で、筋をつかんだに過ぎないという方が正しい。
なんかひどく勿体ない読み方をしてしまったと思う。再読しよ。

頻繁にというわけではないけれど、定期的に、あーどいつもこいつも意味にまみれやがって、みたいなうんざりした気持ちになる時がある。そんなこと言ったってどうしようもないのだけれど、そんなに意味が欲しいか、意味がないとダメか、プライスレスは無価値のことやぞ、わかっとんのか、みたいなところまで考えて、無価値と無意味は違うんかな、と思い立つ。

価値がなくても生きていられるけど、多分意味がないものは生きていることができない、意味のないものは把握できないので、私たちの手からはするり抜け落ちてしまう。

どうだっていいことも 声 聞こえてる 壁越しに 声 伝わってくる 

 

眠たい、朝だよ

ゆけり、数秒

うちやまさん、という歌人について教えてもらい、第一歌集である『窓、その他』を初めて読んだのが今年の初めくらいで、この歌集の尋常ではない引きの強さにただただ圧倒され、それを誰に語ることもなかったんだけど、先日短歌の話になってうちやまさんの話になって「どの歌が好きなの?」と言われた時に、なぜかすぐに答えられなかった。

家に帰って、答えられなかったことが悔しく、いや悔しいというよりかは不本意な気持ちで、歌集を最初から最後までめくっていた時に、ああこれだ、そうだこれだ、と思い出したのが冒頭の歌である。

初読、この歌がイメージとなって立ち上がってきた時に、すごくショックだった。

海辺の「さむさ」の中に立っているという把握は、この人の孤独のようなものを予感させるし、それは「病院めく」という死をイメージさせる場所とのオーバーラップによってより明確になる。ただそれが垣間見えるのも、数秒のことで、この凝縮された一瞬が、余計にこの立っている人の立ち入れない領域をあらわにするのだ。

しかしそこに情感はなく、ただそういう触れることができないと思わざるを得ない絶対的領域、それを孤独あるいは孤高と呼ぶ人もいるだろう、の鋭さをただ思い知るのみである。

またこれは個人的なイメージだが、この海辺に立っている様に、私は逆光の中での景色を想起させられていて、それは「病院」の日が差し込みながらも暗い廊下のイメージとの重なりを見い出してしまっているからなのかなあと思っている。

歌集 窓、その他

歌集 窓、その他

 

 

らっこ

らっこがかわいいのでらっこと暮らし始める、でも一緒に暮らすうちに

貝しか食べないこととか、仰向けにしか泳げないこととかが嫌になって、

らっこのことがだんだん疎ましくなって、少し距離を置こうか、

みたいな話になる。

 

話がまとまるとらっこは海に帰り、わたしは部屋で一人暮らしを始める。

だんだん慣れていくと、はじめから一人で暮らしていたかのようになる。

そしてようやくほとぼりがさめたころに、らっこのこと、思い出す。

 

Dear.らっこ お元気ですか。今わたしアサリに砂を吐かせてるとこ。 

 

 すると、こんな返事が届いたりもする。

 

にんげんごわすれてたとこ、げんきです。あさりいいねー! From.らっこ

 

Remove all ads